HOMEへ Check   Twitterでつぶやく  

泉頭城跡
登城日:(2000.08.28)
所在地: 駿東郡清水町、柿田川公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
有名な湧き水です。神秘的な美しさですね  泉頭城は柿田川の水源地泉頭に築かれた戦国時代(15から6世紀)の城郭です。地域は東西四○○メートル、南北五○○メートルあり、二ノ洞と三ノ洞に区切られた中央の本曲輪を中心に、これを取り囲んで北ノ曲輪、東ノ曲輪、西ノ曲輪、舟付曲輪小郭、第六天曲輪、南ノ曲輪があり、水源地の西側に堂ノ口出丸が築かれています。それぞれの曲輪は泉ノ川と自然の深い洞、人工の空堀で防禦されており、土橋と木橋で結ばれていました。
 この城は戦国時代の終わり頃には小田原北条氏の持城で伊豆を守る国境の城としての役目を果たしていました。永禄十二年(1569)後北条氏は家臣多目周防守と荒川清兵衛を城将とし、沼津三枚橋城や清水町の戸倉城、三島の伊豆徳倉城と連絡して、甲斐武田信玄の侵攻に備えました。
 天正八年(1580)武田勝頼の攻撃には、荒川豊前守、大藤長門守、多目権兵衛を城将とし、それに高橋、市南の足軽大将が各々百騎ずつ従えて城を守り、戸倉城とは舟で連絡していました。天正九年(1581)戸倉城が武田軍に降参すると、泉頭城のまわりの村々は武田軍の安井治太夫らの手によって焼き払われてしまいました。天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、後北条氏は泉頭城を破壊し、城兵は韮山城山中城へ引き上げました。
 元和元年(1615)徳川家康は泉頭の城跡が大変気に入り、自ら老後の憩いの場所と定め家臣土井利勝、本多正純に、隠居御殿の城を造営することを命じましたが元和二年(1616)家康が没したので取り止めになりました。その後城域はまわりの村人によって開墾され、田や畑になりましたが、大正の頃まで城跡はよく残っていたということです。

『泉頭城跡案内板』より

【戻る】

資料
 

私見
公園内にちゃんと城跡であることがかかれてます  例によってかなりわかりにくいところを攻めています。東京出張の空き時間を利用しての城攻めですのでたいしたところにはいけませんが、工夫すればなんとかなるものですね。
 まわりはすっかり住宅地なのですが、光照寺の左隅からは急な下り坂になっており、往時はここは堀かなにかがあったのかもしれません。
 余談ですが、この城跡の前をうろうろしていたら「さっさと歩きやがれ、この馬鹿野郎!」と江戸ッ子の商売人に毒づかれてしまいました(笑)。うーん1城で2度おいしい城でした。(なんのこっちゃ)
【戻る】