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長浜城跡登城日:(2012.11.17) 所在地: 沼津市内浦長浜 |
歴史 | 戦国時代の水軍の拠点の多くは、陸地から離れた島に築かれていますが、この長浜城は全国的にも珍しい山城の特徴を持つ水軍の城で、海側と陸側で見所が異なります。 海側には、最も高いところにある第一曲輪を中心に、海と山に向かって曲輪がL字のように配置されているなど、北条氏の城の特徴を見ることができます。 一方、陸側には、敵の侵入に備えて、山城の特徴である多数の土塁や、空堀、尾根を切断するようにつくられた堀切も見ることができます。 長浜城が城として使われたのは、戦国時代の終わりの天正七年(1579)〜天正十八年(1590)頃と考えられています。 天正七年の記録では、城の建設に関する内容が書かれており、また、北条水軍の責任者が長浜に配置されています。 一方、天正十八年の記録からは、最終的にこの地の土豪(有力者)が、武将として城に立てこもり、敵に備えたことがわかっています。 しかし、豊臣秀吉の攻撃によって、三島市にある山中城が落城するなど、その影響で長浜城も廃城になったと考えられます。 北条氏は戦国時代に活躍した大名で、鎌倉時代にいた北条氏と区別するために、後北条氏とも呼ばれています。 北条氏の租となる北条早雲は、駿河(静岡県)の今川氏のもめ事を治めたことで、沼津市内根古屋にある興国寺城の城主となりました。そこから相模(神奈川県)へと勢力を広げ、三代目の氏康のころには関東の西半分まで支配しました。 しかし、五代目にあたる氏直の時代に、甲斐(山梨県)の武田氏が駿河へ攻めてきたので、対抗するために長浜城は築かれました。 現在、長浜城跡の南には県道がありますが、明治時代の地図では、長浜側も重須側もその道より北側は海でした。 また、長浜城跡から見て北西にある弁天島も陸続きになっていませんでした。 そのため、他の地域へ行く方法は、船や海岸沿いの道だけではなく、陰野川沿いに山を越えて伊豆半島の中央へ行くなどの山道を利用していました。 これらの道を、干物などの商品を背負ってお客へ売りに行く行商が、盛んに行き来をしていました。 長浜城跡の周りは、岬と入り江が複雑に入り組んだ海岸線が東西に続いています。 また、長浜城跡の西側には、陰野川が流れています。 この川から西側は、長井崎などの平らな台地や比較的なだらかな山が続き、その地形を利用してみかん栽培なども行われています。 一方で、東側は、険しい山々が海岸まで迫っています。 長浜城跡は、伊豆半島の西側の根元に位置し、深く入り込んだ内浦湾に面しています。 この城は、関東地方を治めていた北条氏が武田水軍との戦いに備えるために築かれたと考えられています。それは、内浦湾の沖に淡島があるので、攻められにくく、周りの水深が深いため、軍船が治められる絶好の場所だったためです。 よく晴れた日には、ここから富士山と愛鷹山を背景として沼津市街が広がる様子を見渡すことができます。戦国時代、長浜城が北条氏の海城であった頃にも、この場所から狩野川の河口あたりがよく見えたはずです。天正七年(1579)、この狩野川河口に北条氏の敵である武田氏が三枚橋城を築いて水軍を配置しました。北条水軍はこれに対抗するため、梶原備前守景宗を大将として、ここ長浜城に特別な軍船隊を置きました。梶原景宗は伊勢の出身で、当時西国で発達していた「安宅船」と呼ばれる大型軍船の運用を得意としていました。長浜城は梶原景宗の指揮する「安宅船」船隊の基地として整備され、武田水軍に対して有利に戦いを進めるための足場になったのです。 第四曲輪は長浜城の中でも小規模の曲輪ですが、この位置から尾根伝いに登ってこようとする敵をここで撃退する役目を担っていたと考えられています。第一曲輪から第三曲輪までは比較的短い距離で並んでいますが、第四曲輪は、やや大きめの「堀切」を挟んで、第三曲輪と離れて築かれており、第三曲輪よりも8メートルほど低い位置にあります。 他の曲輪と異なっている特徴として、この曲輪の土塁は単に土を盛るだけではなく、凝灰岩の岩盤を削り残すことで土塁としており、かつての土塁の幅は約5.5メートル、曲輪中央部との高さの差が約1.5メートルもあったと考えられます。狭い第四曲輪において、全体の面積に占める土塁の割合が非常に高く、生活よりも防御に重点があったようです。土塁の頂部に1基だけですが柱穴が確認されており、これは、何らかの防御施設の痕跡を示しているのかもしれません。 戦国時代の山城には、尾根伝いに攻めてくる敵を食い止めるために尾根と直交する形で掘られた大きな堀、「堀切」という施設がみられます。長浜城が築城されてから間もなく、この場所には第二曲輪と第三曲輪とを切り離す「堀切」が設けられ、これは第三曲輪と第四曲輪との間に残っている「堀切」と同じく、岩盤を深く掘り込んだ大きなものでした。発掘調査によって、第二曲輪側の壁には堀底から約1.3メートルの高さに岩盤を掘り残した幅約1.2メートルの柱穴が2つ見つかりました。太く高い2本の柱が立てられていたことがわかり、跳ね橋の主柱だったのではないかと推定されました。 しかしながら、この「堀切」はのちに埋められ、幅を狭くして虎口(出入口)に改造されました。かつて跳ね橋のあった位置に門が立てられ、跳ね橋の柱穴の一つが再利用されて門柱の一方となり、第三曲輪側約2.2メートルの位置にもう一方の門柱が設けられました。この様にして、時期の異なる二つの建物が存在した結果、この場所にL字形をなす3本の柱穴が残ることになりました。 現状は、門へ登ってくる道の正面に第二曲輪の高い土塁がそびえ、側面上方には第三曲輪の土塁が迫る、長浜城の最終段階における堅固な防衛態勢の姿をとどめています。改造される以前も、跳ね橋と推定される橋が設けられていた場所であり、ここは城全体の防衛上、常に大切な地点でありつづけたのだろうと考えられています。 第三曲輪は、弁天社の祠の南側に見える堀削痕から、大部分が削り取られていると推測されています。当時の地形で残っているのは、この説明板が立つ南側の一部だけで、戦国時代の第三曲輪の平面は祠が建っている高さではなく、現在地の場所の高さで生活が営まれていました。曲輪の内部からは、直径約50センチの掘立柱の柱穴が並んで発見されており、掘立柱建物もしくは柵が存在していたようです。 この曲輪も他の曲輪と同様に重須側にのみ土塁がめぐっています。特にこの説明板が立つ地点からは、土塁や柵で身を守りながら、大手口へ登ってくる敵を上から見下ろして、側面攻撃を浴びせる仕組みをとっています。この側面攻撃の仕組みは、「横矢」と呼ばれ、北条氏の城郭で盛んに用いられた方式であり、第三曲輪、虎口(出入口)、第二曲輪の三地点を組み合わせて、防御機能を果たしていました。 戦国時代の山城には、敵の侵入を防ぐために地面を掘った「堀」と、土を積み上げて作った堤である「土塁」をめぐらせたものがたくさんあります。長浜城も他の山城と同様に、第一曲輪から第四曲輪まで土塁が設けられていました。後の時代に削られたり流失したりしてしまったため、当時の高さはわかりませんが、現存する土塁底部の幅から考えると第二曲輪の周囲には1メートル以上の高さの土塁が巡らされていたと考えられます。特にこの説明板のある地点の土塁は非常に高く作られており、下に見える虎口に攻め登ってくる敵を上から狙い撃ちするために、とりわけ入念に設計されたものだったと推定されています。 長浜城跡の土塁は重須側(陸側)だけにあり、長浜側(海側)には造られていません。防御施設の配置と「安宅船」が重須に繋留されていたという伝承からみると、城を造った人たちは、重須に攻め込んだ敵が上陸して長浜城を襲うのだと推定していたのかもしれません。 第二曲輪は長浜城のなかで最も広い平面で、発掘調査によって180基ほどの穴が発見されました。ここには掘立柱の建物が建っていたと考えられます。 柱穴の痕跡は第二曲輪前面に広がるのではなく、西側よりにかけて一部密集しながら、細長く広がっていました。このことから、建物は少しずつ位置をずらしながら何回も繰り返して建て替えられたと考えられ、さらに柱穴の配置から南北軸にする建物と、それに直交する東西軸で建てられた建物があったと推定されました。ここでは、最大の大きさである第一号建物とそれに直交する第六号建物の柱を復元表示しています。建てられていた時期や建物の性格を推測できる建物の出土が少ないため、正確なことはわかりませんが、兵舎や食料庫などの建物であったと考えられます。 第二曲輪西側北端では、第一曲輪の裾に沿う形で設けられた堀が見つかりました。当初、この堀は重須側の斜面に設けられている竪堀に直接繋がっていると考えられていましたが、発掘によって2つの堀の接続部に畝状の堀り残しがあったことがわかりました。斜面に設けられた竪堀をのぼってきた敵は、仕切になっている畝状の堀り残しに阻まれてこの堀に入ることができず、第二曲輪には容易に進入できない仕組みになっていたのです。 この堀は第二曲輪の中だけで完結する「池」のような構造になっており、長さは約8.0メートル、上幅で約3.0メートル、下幅で約2.0メートル、深さは約1.6メートルの箱型で、安山岩を削り込んで作るという手のこんだ構造になっています。畝を乗り越えてようやく第二曲輪に侵入できたとしても、この堀があるために、敵兵は第一曲輪へ登る斜面に容易にとりつくことができない仕組みになっていました。 この堀は、北側の櫓と組み合わせて第一曲輪を守る施設であったようです。 第二曲輪北東隅の第一曲輪と接する場所に、半地下式の構造をもつ長辺4.6メートル、短辺4.3メートルの2間四方9本柱の掘立柱建物跡が確認されました。この建物跡は、約1.8メートルの間隔で岩盤をくり抜いた柱穴と溝状の堀込みを持っており、海側から曲輪の内側に向かって少しずつ柱の位置を替えて、3回の建て直しがされています。 海側へ見通しがきくことや岩盤をくり抜くという困難な作業を同じ場所に繰り返し行って建て替えていることから、この建物は、この場所になくてはならない、とりわけ重要で象徴的な意味を持つ建物であったことが考えられます。また第一曲輪への登り口と想定した地点に見つかったのはこの建物跡だけで、第一曲輪への通路口は発見できませんでした。断定するための明確な証拠は得られていませんが、この建物跡は、海側を見張る役割と第一曲輪と第二曲輪を連結する登り口の役割の両方を兼ね備えていた「櫓」であったと推定されます。おそらくこの建物は南側の堀と組み合わせて用いられ、第一曲輪に攻め込もうとする敵を防ぐ役目を果たしていたのでしょう。 復元した櫓は、発掘調査で発見された柱穴の上に正確に建てられており、角度が急で幅の狭い階段や半地下式の構造も当時の状況を推定して再現したものです。 長浜城の中で最も高いところに位置する第一曲輪からは、北条氏の敵城である三枚橋城がよく見えます。ここでは、三枚橋城の監視や水軍の指揮が行われていたのでしょう。 第一曲輪には西側から北側にかけて、土塁が「L」字状に設けられています。また発掘調査によって、東側に岩盤の安山岩を掘り込んだ90センチほどの大形の柱穴が2基と、南側から西側にかけて「L」字状に伸びる小形の柱穴列が発見されており、大形の柱穴は「門」、小形の柱穴列は「塀」と推定されました。この2つの組み合わせによって、第一曲輪の中には周りからは見えないように囲われた特別な空間が設けられていたと考えられます。城兵や水軍に対して命令を出す人物が第一曲輪にいたのかもしれません。 第一曲輪から海に向かって北東に延びる尾根上には地形に合わせて大小4つの曲輪が階段状に、そして直線的に配置されています。第一曲輪に附属する施設とみなされることから、「腰曲輪」と呼んでおり、第一曲輪に近い方から便宜的に腰曲輪A,B,C,Dという名称をつけてあります。現在地は腰曲輪Bとなり、いずれの曲輪も、尾根を削る、土を盛るなどの大規模な土木工事を行うことで広い面積を作り出していました。 発掘調査では、柱の跡は見つかったものの、遺物の出土がきわめて少量で曲輪の性格を断定するための証拠を得ることはできませんでした。とはいえ、長浜城は水軍同士の戦いを支える「海城」という性格を持っていたため、海に突き出たこれら曲輪群は海側から城内に攻め込もうとする敵を撃退する役目を持っていたのだろうと考えられます。 『長浜城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
長浜城は、水軍のお城ですがその構造が山城になっているという面白いお城なのですね。ということで車で近づいていきますと、山麓は漁業組合の敷地内になっていたので入れないなぁと思っていたのですが、よく見たらどうやら城の見学者には駐車が認められているようです。素晴らしい!長浜城に関する案内板も「これでもか」と言わんばかりに設置されていて、それらを読むだけでもいい勉強になります。登城道は弁財天の参道として造られている石階段があるのですが、古くて危険だからなのでしょうか新しい登城道が木で造られていました。ものすごく整備に力が入ってますねぇ・・。遺構を確認する前だというのにお腹いっぱいになりそうな予感です。 第四曲輪に取り付きました。南や東に張り出した配置にあって、他の曲輪とは大きな堀切で区切られて独立しています。そして第三曲輪から見下ろされている高低差にはしびれます。 第三曲輪には弁財天の祠が祀られており曲輪面は改変されていると思いますが、南側からのルートを見下ろす格好で土塁がめぐらされています。縄張り図で見れば堀切もあって遮断されていたようですが、後に改修があり虎口と門があったことが復元、整備によって分かりやすくなっています。また虎口には石積みも露出していますね。ここはまさに防衛の重要箇所であることがひしひしと伝わってきます。 次に第二曲輪へ。広い曲輪であるここは一気に視界が広がりますのでこのあたりから城全体の構造が分かるようになります。掘立柱建物跡が立っていた様子もよくわかりますね。しかし何よりも衝撃的なのは、第一曲輪への接続に使われている櫓の存在です。曲輪間の高低差がうまく防御に活かされてますね。長浜城は、本当によく整備の手が入っているなと何度も驚かされるお城です!そしてそのまま櫓を使って第一曲輪へと突入です。とても攻め込むといった勢いはつけられず、慎重に歩かないといけない構造です。この第一曲輪からは長浜城がL字状に尾根上に郭が展開していることが見渡すことができ、また整備によってその様子が実に分かりやすくなっているのがとても素晴らしい〜。また、北側に階段状に伸びる曲輪と、その先には現在も多くの舟が繋留されていますので、「往時もこんな感じだったのかな」と想像するには文句なしの状況。天気がよければここでお弁当でも食べながらノンビリするのもいいですねえ。相変わらず私が訪問した時は雨でしたけれどね。
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