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杉原土居跡登城日:(2008.08.15) 所在地: 鳥取市鹿野町鹿野、幸盛寺 |
歴史 |
天正八年(1580)の鳥取城攻めの際に鹿野城を攻略した羽柴秀吉は、鹿野城に亀井茲矩を置いた。その後、一時軍を姫路に戻した秀吉の隙をついて、毛利方の杉原播磨守盛重は、矢田七郎左衛門らとともに鹿野城を攻撃した。その際に築いた陣が杉原土居である。 『日本城郭体系』新人物往来社刊参照 ◆山中鹿之助の墓 「我に七難八苦を与へ給へ」と三日月に祈ったという山中鹿之助幸盛公の墓は、この幸盛寺にある。 幸盛公は、尼子氏滅亡の後尼子氏の再興と出雲の奪回のために活躍を続けたが、その雄図むなしく天正六年(1578)備中国、甲部川阿井の渡(岡山県高梁市)で毛利氏のために謀殺された。 天正九年、鹿野城主となり気多高草一円を領した亀井武蔵守茲矩公はもと湯新十郎といったが、幸盛公の養女を娶り、亀井氏をついだもので明照山持西寺をこの位置に移し、寺号も鹿野山幸盛寺と改め、舅にあたる幸盛公の冥福を祈るとともに遺骨を高梁から移し、境内に墳墓を築いたものである。 『杉原土居跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
鹿野城の北側、民家が立ち並ぶ中にある幸盛寺が杉原土居という陣跡だったようです。土塁の跡なんて残ってないんじゃないかなと思うんですが、それでも幸盛寺の中に山中鹿之助の墓があったのはテンションあがりました。お墓なのにすいません(^^;。しかしここに陣を構えて鹿野城を狙っていたんですか。今は整然とした民家の中、水が流れている鹿野の集落が印象的でした。
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