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黒田城跡登城日:(2006.02.13) 所在地: 一宮市木曽川町黒田、黒田小学校 |
歴史 |
明応年間(1490年代)相模の国から尾張に入った五藤源太左衛門光正が黒田に館を築いたのが始まりと考えられる。 ◆戦国時代の黒田城 織田伊勢守信安岩倉城に在りて山内但馬守盛豊を黒田の城代とした。 弘治三年(1557)七月山内但馬守盛豊黒田城で夜討にあい盛豊長男十郎共に討たれた。 犬山城主織田十郎左衛門信清の弟織田勘解由左衛門尉廣良城主となる。 永禄五年(1562)織田勘解由左衛門尉廣良が美濃軽海で討死したあと、犬山織田の家老、和田新助城主となる。 天正二年(1574)長島における一向一揆の戦いで新助討死し弟の和田八郎城主となる。 天正十年(1582)織田信長、明智光秀に討たれた後、織田信雄は伊勢・尾張を領することとなり、清洲に入り沢井左衛門尉を雄重を黒田城主とした。 天正十八年(1590)小田原北条氏攻めのとき、一柳伊豆守直末戦死、秀吉は弟の一柳四郎右衛門に後を継がせ黒田城主とした。四郎右衛門あらため一柳監物と名乗った。秀吉の死後、家康側につき関ヶ原の戦いの戦功により伊勢神戸五万石に転封された。 その後、家康の四男松平忠吉が尾張に封ぜられ家臣富永丹波守忠兼は一柳監物の去ったあとの黒田城に入った。「清洲分限帳」によれば慶長十四年まで黒田城をあずかっていた模様である。 ◆山内一豊この城に生まる(1545) 弘治三年七月、黒田城夜討にあい父盛豊兄十郎討死。一豊と母妹弟は土居の後ろにかねて作っておいたかくし窓を突き破って竹薮に逃げ、生竹を倒して橋とし堀を渡って岩倉城にたどりついた。 のちに信長、秀吉に仕え小田原戦の後秀吉より掛川五万石の領主に封ぜられた。 関ヶ原の戦いでは、いちはやく家康側につき戦後この功により、土佐一国二十万石の大大名になった。 『黒田城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
大河ドラマ「功名が辻」で旬ですので、山内一豊の生誕地とされる黒田城にやってきました。名古屋から約20分普通電車に揺られJR「木曽川」駅につきました。城跡は駅手前左側の黒田小学校ですのですぐにわかります。ちょうど名古屋方面に戻る方向に3〜400メートルほど歩いたところに立派な案内板や小さな一豊の像が置かれています。この像の一豊の年齢設定がぜひとも知りたくなったのは私だけではないはず(笑)。 黒田城は120メートルx100メートルほどの規模で周囲を堀で囲われていたそうです。ちょうど小学校の校庭の脇にある川がそうだったのかなぁ?と思いながら小学校を一周して帰りました。
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