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黒井城跡 登城日:(1999.05.01→2005.04.29) 所在地: 兵庫県氷上郡春日町黒井 |
歴史 |
黒井城は別名を保筑城・保月城とも呼び、猪ノ口山(標高365メートル)にある山城で、南北朝時代の建武二年(1335)春日部荘を領した赤松筑前守貞範(則村の次男)が、はじめて山頂に城を築いたことからその歴史が始まります。
その後、約二百年間数代の城主を経て、戦国動乱最中の天文二十三年(1554)荻野(赤井)悪右衛門直正が城主となり、その勢威の拡大とともに、全面的に大改修の手を加えたのが現在の黒井城跡です。 山頂の本城部分には、荒々しい野面積みの石垣を積み上げ、これを囲んで中腹には三段曲輪・太鼓の段・石踏の段・西の丸・東出丸などの曲輪を配して防禦を固めています。 さらに枢要な尾筋には千丈寺・龍が鼻・的場・百間馬場などの砦跡があり、また山中のいたる所に曲輪跡・土塁・堀切りなどの防禦施設が埋もれていて、周囲約十キロメートルにおよぶ猪ノ口山系全体が巨大な城塞となっています。 天正七年(1579)八月、さしも堅固を誇った黒井城も、丹波平定を急ぐ明智光秀の大軍の前に落城をとげました。その後四百年余りの間、なんら人工の手を加えられることもなく、今でも戦国時代の城のようすをそのまま残している城跡として、全国的に高い評価を受けています。 『黒井城案内』より
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資料 |
私見 |
丹波の赤鬼の異名を持つ荻野直正が篭る黒井城は波多野秀治の寄る八上城と共に、明智光秀の猛攻を何度も退けた堅城でした。建物の遺構こそないものの、猪口山全体が城郭という雰囲気を持っています。
約20分で山頂の本丸跡地までたどり着くことができました。めちゃくちゃしんどいです。それほど高い山ではありませんでしたが、急傾斜のためでしょうか本当に疲れました。 しかし、本丸跡についた時は風がよく渡り心地よく、疲れもうそのようにひいていきました。眼下に広がる丹波山系や町並みを見下ろしていると但馬竹田城の風景を思い出しました。この黒井城は竹田城ほど石垣は残っていませんでしたが、眺望は決して負けていません。 南側には崩れかかっている石垣が少しのこっています。また東曲輪から本丸へ歩いていくと、堀切で本丸が仕切られているのもよくわかります。よく見ていくとそこらかしこでここがかつて城郭であったことを物語る跡がありそうですね。 久々の黒井城訪問です。偶然にも前回と同時期なのですが完全に認識が一新しました。下館跡脇の駐車場から石段をあがると三段曲輪、太鼓の段、そして東出丸へと東側へ回り込んでいきます。そこから進路を変え、本城部に入っていきます。虎口から東曲輪へ入ると初めて石垣が現れます。三の丸、二の丸と曲輪が連続していますが、その先の本丸とは大きな空堀が切られています。前回は気づきませんでしたが本丸の周囲には腰曲輪がまわっていて、本丸斜面の石垣がよく見えます。この石垣は落城後の斉藤利三、堀尾吉晴ら豊臣方の武将により整備されたのではないかとも言われています。 本丸から見るとよくわかるのですが、この城はYの字状に城域が広がっており、周囲の各所に砦が築かれており実に堅牢な大城郭であることを再確認させられます。千丈寺砦や、龍ヶ鼻砦などはかなり尾根筋を歩かされますのでなかなか行かれる方も少ないでしょうが、それら砦群まで行かなくても本丸奥にある西ノ丸だけはお奨めしておきます。豊富な石垣に守られた本丸とは趣を異にし、土塁や櫓台、堀切、切岸により形成している”土の城”である西の丸は完全に別の城跡ですね。ちょうど八木城を彷彿とさせられます。今回は千丈寺砦ほか2つほど砦を踏破しましたが、遺構がよく残ってることに驚かされました。冬の季節にじっくりと歩き回りたい、名城ですね。
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