HOMEへ Check   Twitterでつぶやく  

下津井祇園下台場跡


登城日:(2006.06.24)
所在地: 倉敷市下津井吹上1丁目
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
石垣と当時の雰囲気をよく残す祇園下台場  嘉永六年(1853)のペリー来航を契機にして日本の沿岸警備に対する取り組みが強化されることになる。岡山藩は他藩より遅れること文久三年(1863)に砲台場を築造した。岡山城への海の玄関口である外波崎小串城山、下津井には祇園下、田之浦西ノ脇にそれぞれ台場を築いた。 石垣と当時の雰囲気をよく残す祇園下台場  祇園下台場には80斤(ベキサレス・ボムカノン砲)が2門、臼砲(古流とか旧砲ともいう)3貫が1門、2貫が2門、1貫が1門の計6門の備砲を設置されたという。下津井では主に地元の問屋衆で構成される凌波(りょうは)隊という民兵の組織が慶応三年(1867)に結成され、砲台を守る任にあたっていた。
【戻る】

資料
 

私見
今は立ち入り禁止となっている台場跡  下津井城の南山麓、海岸線そばの祇園神社が建つ南端に祇園下台場がありました。現在も石垣が残っていますので当時の形状をしのぶことができますね。台場跡には料亭ができたり、民間会社の下津井寮となったりとかなり改変されてしまったのではないかと思われます。現在は台場跡地に足を踏み込むことはできませんので周囲を徘徊したり、祇園神社から見下ろすということになります。
 当時の縄張りは池田家文庫の絵図を見ればよくわかります(いつものようにトレースしたいところですが止めておきます(-_-;)が、以前は台場の周囲は海となっており東から南、西面をにらんで突出した形状となっていました。南北60メートル、東西40メートルの規模で、石垣と土塁を積み上げ4門の砲列を敷いていました。北東部には番所、弾薬庫、船着場なども用意されていたようです。
石垣と当時の雰囲気をよく残す祇園下台場  下津井には本台場としてこの祇園下、田之浦、西ノ脇のほかにも伏台場と言われる小さな隠し台場が10箇所作成されています。これらは主に上陸戦用のものだったようですが、現在は探すのがちょっと大変そうです。また改めて探して見たいと思いますが夏場は下草が伸びてきていますので、山城ほどではないにせよ場所を特定させるためには邪魔以外の何物でもありません。いくつかは上述の池田家文庫にも縄張りが残されていますので興味がある方は是非探してみてください。
【戻る】