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生石砲台(台場)跡


登城日:(2006.01.29)
所在地: 洲本市由良町由良
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
防波堤と一体化してるようですが胸墻が残っています。  幕府は度重なる外国船の来航に危機感を募らせていた。安政元年(1854)には全国の沿岸部に台場の築造を各藩に命じた。折りしも同年ペリーの二度目の来訪、および大阪の天保山沖にもロシアのプチャーチンがやってきていた。幕府は大坂湾の警備を強化、和歌山藩と徳島藩にそれぞれ台場構築を命じていった。
 由良地区では高崎、六本松(オランダ)、生石、そして丸山台場がそれぞれ築造され、明石海峡に面する岩屋地区では松帆台場を中心に龍松、拂川、古城、長谷川、石屋神社境内などに6箇所の台場を構築した。また、洲本地区にも霞台場炬口台場が築造された。生石台場が築造されたのは文久三年(1863)である。

『淡路洲本城』城郭談話会刊参照

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資料
 

私見
内側に見える石垣 西側から見ると内側が通路のようになってしまっています。  いよいよ淡路島内にある台場めぐりを開始してみました。南下してそこから北上していくルートをとります。一番手は高崎台場がある成ヶ島から海峡を挟んだところにある生石台場(砲台)です。かつては四角い形状をしていたようですが、現在は防波堤の内側を沿うようにして一直線に胸墻土塁が残っているのみです。内側には三段ほどの石垣が見えていますが不揃いな丸い自然石が使われています。エトワール生石の駐車場で破壊されてしまっているような位置関係です。隣接する高崎台場とは違って極めて小規模なもので、大砲も常備されていなかったらしいですね。
 この日は天気がよく海草やあさり(解禁前^^;)を採る方も見られました。ここに台場跡(砲台跡)があると知らずに来たとしてもたぶん見落としてしまいそうな状態ではありますが、今後もずっと残っていきそうな状態でした。せめて案内板でもあればいいんですけどねぇ。
 西側の山上には戦時中に要塞とされた跡が残っていました。レンガ造りのアーチや横堀や腰郭状の遺構も見られますがさすがにこれは城めぐでは取り上げないことにします。(^^;
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