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弁天山台場跡登城日:(2006.07.30) 所在地: 小松島市金磯町 |
歴史 |
江戸時代後半になると日本の近海には黒船がよくあらわれるようになった。紀伊水道や小松島沿岸にも、外国の黒船がしきりにあらわれ、その付近の測量などをし、こちらの船が通ると、小船を出して航路を変更させたり、作業が終わるまで船を通さなかったり、いろいろ横暴な態度が見られるようになった。1863(文久三)年、多田家九代の祖宗太郎は海岸の防備のため、私費を投じてこの山および周辺に砲台を築いた。大砲八門を備えた立派な砲台であった。宗太郎はこの砲台を藩に献上した。藩主斉裕は、その功績をたたえ、家来の身分にとりたて、兵隊40人に砲台を守るよう命じた。兵隊たちは毎日訓練にはげみ、その監視は明治二年、砲台が廃止されるまで一日も休むことなく続けられた。大砲八門の他、火薬庫、兵舎、番所、道具舎、射撃訓練場等を備えた弁天山砲台は紀伊水道から大阪湾、瀬戸内海をにらんだ守りの中心であったといわれている。
『弁天山台場跡案内板』より
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資料 |
私見 |
徳島藩が築造した台場の一つ、弁天山台場へやってきました。徳島藩の台場といえば淡路島岩屋の松帆台場や炬口台場、生石台場などが私にとってはイメージが強いのですが、当然ながら阿波国内にも台場は築かれていました。津田、沖洲とこの弁天山の3つです。 大きな石碑と謎の石像が少し胡散臭さ(笑)を感じてしまいますが、案内板の絵図で見るとなかなか見事な台場だったように見えます。弁天山台場に設置された八門の砲台とは、十八斤同砲が二門、二十四長迦灼砲(24ポンド長砲身カノン砲)、十二斤同砲、十二斤短迦灼砲(12ポンド短砲身カノン砲)、六斤長迦灼砲、六斤短迦灼砲、二十栂忽砲(20ゾイムホウィッツル砲)各一門となっていました。(『城郭・陣屋・台場・要害事典』東京堂出版)全然イメージできないのがつらいですが・・・。 案内板脇の石段を上りつめると小さな展望公園のようになっているところに出ます。段差があるのが胸壁(玉除土塁)の一部ということなんでしょうか。独特の雰囲気が残っているもののなにか「惜しい」と感じてしまう自分でもよくわからない台場跡となりました。
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