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橋津台場跡登城日:(2006.03.25) 所在地: 東伯郡湯梨浜町大字長瀬 |
歴史 |
鳥取藩台場跡は、因・伯二国の海岸線東西160キロメートルの内、因幡では浦富、浜坂、賀露の三ヶ所、伯耆では境、淀江、赤碕、由良、橋津の五ヶ所に築造された。 江戸末期、諸外国との緊張が高まるにつれ、沿岸警備のため築造されたもので、各台場には六尾反射炉で生産された大砲が配備された。前記八ヶ所のうち、保存状態の良好な四ヶ所(伯耆分)が昭和六十三年に国の史跡に指定された。これらの台場には、西洋式の城塞プランが取り入れられており、きわめて異色で、幕末史の理解に欠くことのできない重要な遺跡といえる。 橋津台場は藩倉のある重要港湾「橋津湊」に田後大庄屋椿岩助が中心となって築造したもので、由良台場と同じく左右対称の構造であったが、現在は両翼の土塁(高さ四メートル、長さ四十五〜五十メートル)と後方土塁(東西百三十八メートル)および目隠し土塁(長さ二十五メートル、幅四メートル)が残っている。 『橋津台場跡案内板』より
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資料 |
私見 |
橋津台場もまた国の指定史跡となっている幕末台場の一つです。しかし状況は荒れたままに近い状態です。駐車場の西側にある防風林の中に台場が埋もれた格好になっているのですが、当時の絵図をみていますと角を4つ持つ台形のような形状になっているのがわかります。火薬庫を4つもっていたようですが今となっては見つけるのはなかなか難しい状況です。しかし、海に面した土塁の手前には交互に少しずれたようになっている目隠し土塁は確認することができました。 せっかく当時の形状が綺麗に残っているのですからもう少し整備すればもっとよく台場がわかるようになるのになあと思ってしまいます。国の指定史跡ですしねぇ。 橋津台場のまわりには古墳が多くあるのですが台場築造の際にはこの古墳の土を利用して土塁を築いたようですね。
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