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浦富台場跡


登城日:(2006.01.02)
所在地: 岩美郡岩美町大字浦富
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
W字形がよく残る浦富台場  幕末、黒船渡来による未曾有の国難に遭遇した江戸幕府は、開国か攘夷かに国論を二分したが、文久二年(1862)、朝廷は攘夷を決定、鳥取藩でも海辺防備のため因・伯海岸の要地に台場の構築を急いだ。文久三年(1863)、十月頃迄には野戦台場も含め十一の台場に大砲の配備を完了している。
 台場砲は、現大栄町(当時六尾村)の反射炉で鋳造した鉄製のもので大小の種類があったが、浦富台場には四門を配置、家老鵜殿長道の持場であった。
W字形がよく残る浦富台場  台場の築造は、在方では農民の労役に頼ったが、守備もまた農兵(民兵)を組織し、様式訓練を行っている。元治元年(1864)の「岩井郡海辺村々絵図」によると、浦富台場は他にもう1箇所あったようである。西に約四百メートルの同一線上にあり、浦富陣屋から海岸に向かって真っ直ぐに当時の道が通じている。現在この遺構は残っていないがその形は┗━┛形のものである。今もここはやや小高い地形となっている。
 安政四年(1857)には、岩井郡で六十四名の「力者隊」の編成名簿もあり、文久三年頃になると庄屋を民兵隊長として郷士に取り立て、苗字帯刀を許し、国難に立ち向かう態勢を整えたのである。現在、県内に遺る台場はわずか五箇所(橋津由良淀江・浦富)である。
 この浦富台場(東西の長さ約92メートル、南北約40メートル、高さ4メートル、塁上の最大幅員13メートルの両翼開放型であたかも鳥が羽根を開げた形である)は、県東部(因幡地区)に遺る唯一のものであり、近代城郭史上からもその歴史的意義は大きい。

『浦富台場跡案内板』より

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資料
 

私見
現在も高台として僅かに雰囲気を残す?もう一つの浦富台場跡付近 海側から見た浦富台場  浦富台場は「お台場公園」として綺麗に整備されています。国道178号線から入る道は車では入れませんので、海側から入ることになります。案内板と明らかにそれとわかる土盛りがあります。これも胸墻でいいのでしょうか?
 形状は海に向かってW字状になっています。石垣造りだった舞子砲台を思い出されます。周りも畑や田圃ですので見晴らしもよく当時の雰囲気を感じやすい状態なのがいいですね。また案内板で知ったもう1つの台場も行ってみました。現在も浦富台場までの路地がよく残っていますので見当がつけやすいのですが、高台になったそれは墓地になっていました。こちらは完全に消滅してしまった感がありますね。
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