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松山城跡登城日:(2011.05.09) 所在地: 比企郡吉見町南吉見 |
歴史 | この城跡は、市野川が形成した広大な低地に突き出た丘陵の東端に築かれており、戦国期に幾度もの攻防戦が行われた北武蔵地方屈指の平山城である。現存する城跡は当時の姿を良好にとどめており貴重な文化財である。 市野川に突き出た部分から本丸、二の丸、春日丸、三の丸が南西から北東に向って一直線に並び、その両側に多くの曲輪や平場をもっている。また、兵糧倉跡や物見櫓跡なども残されている。 城の歴史は古く、古代にさかのぼるとさえ言われるが、一般的には鎌倉時代末期の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門尉築城説、応永二三年(1416)ごろの上田上野介築城説などがある。 しかしながら、城郭としての体裁を整えたのは、十五世紀半ば太田氏が江戸・川越・岩槻の各城を築いた時期に近いものと思われる。 この城が天下に知られたのは、今から約450年前の天文年間から永禄年間のことであり、城をめぐる上杉氏・武田氏・北条氏の争奪戦は有名である。のち豊臣勢に攻められて、天正十八年(1590)に落城した。歴代の城主上田氏の滅亡後は松平家広の居城となったが、後を継いだ弟忠頼が慶長六年(1601)浜松に転封されたのを最後に廃城となった。 平成二十年に国指定史跡となっている。 松山城の築城は、山内上杉氏・扇谷上杉氏らによる関東の動乱を背景とした15世紀後半という考え方が有力である。松山城が中世史上に登場してくるのは大永四年(1524)1月以降であり、室町幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷・山内両上杉氏の対立から、関東制覇を進める後北条氏が進出する時期と言える。この中にあって関東各地は一気に戦乱の渦中に巻き込まれるが、松山城もその例外でなく常に戦略の最前線として、後北条氏・甲斐武田氏と岩槻太田氏・越後上杉氏との間で、幾多の合戦がくり広げられた。天正十八年、豊臣秀吉による関東攻略が行われた際には、前田利家・上杉景勝の大軍に包囲され、4月下旬に落城した。徳川家康の関東入国の後は、松平家広が居城したが、跡を継いだ弟の忠頼が慶長六年(1601)に浜松城に移封されたのにともない廃城となった。 松山城跡は、平成20年3月28日に「比企城館跡群 松山城跡」として、「菅谷館跡(嵐山町)」「杉山城跡(嵐山町)」、「小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)」と共に国指定史跡になった。 松山城は丘陵の先端部に築かれ、三方を市野川によって囲み、その流域には広大な湿地が広がる。眼下を流れる市野川は、城のある地形に突き当たって大きく蛇行し、その裾は荒々しく削り取られる急峻な崖地である。城の東側は荒川・和田吉野川の氾濫原で、北東側は丘陵と地続きである。城の曲輪配列は西から東に向かって、本曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪、曲輪4が一直線にならぶ連郭式で、周囲は規模の大きな空堀が取り巻き、これを取り囲むように兵糧倉跡、惣曲輪等の大小様々な腰曲輪が配置されている。松山城は、東に広がる広大な関東平野と戦国期の山城が集中する西の山間部の分岐点に存在する北武蔵支配の重要拠点であった。また、この立地は扇谷上杉の家臣から、後に後北条の勢力下に加わった上田氏の支配域の東端と見ることができる。上田氏比企地方における本拠は比企西武の小川・東秩父地域であり、東秩父村の安戸城及び菩提寺である浄蓮寺を西端とし、中城・腰越城・青山城・青鳥城などを経由し松山城を東端とする領域を支配していたことで知られる。 室町幕府の初代将軍足利尊氏は、幕府による全国支配を強固にするため、関東に鎌倉府を置き四男の基氏を鎌倉公方として統治させた。その鎌倉府の要職に「関東管領」があり、上杉氏が代々世襲していた。この上杉氏に諸派があり、山内上杉・扇谷上杉が有力であった。この公方足利氏・山内上杉氏・扇谷上杉氏らによる有力者同士の争いは、次第に激化・長期化し15世紀以降の関東地方は戦乱状態に突入していった。こうした室町幕府の旧勢力は、新興勢力の後北条氏の勢力下に統一され、関東の戦国時代は、後北条氏を中心に新たな局面を生み出した。 『松山城跡案内板』より
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資料 |
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【上杉段階】
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私見 |
うまく時間調整が出来、松山城に来ることが叶いました。東部東上線「東松山」駅からバスに乗り換えます。詳しい行先は忘れましたが、乗り場で運転手さんに聞けば大丈夫(そりゃそうですよね。) 松山城の比高は車道から見上げること50メートルほどでしょうか。自然となのか、登城者が歩いてついたような登城道がありますので簡単に登ることができます。革靴&スーツでもOKですのでその程度は想像いただけるかと思います(笑)。ただ本丸の真下を通り、太鼓櫓との間をあがっていく所では、いよいよ山城に攻め込むぞといった印象を受けます。麓の案内板で見た、ウネウネした空堀(案内板では水色に塗ってあったけど)や複雑に組み合わさった郭群とご対面というわけですね。 そしてそれは太鼓櫓の上に立っただけでだいたい城の様子を感じ取ることができました。すごい空堀!しかも細かく曲線を描いていて、その先に大小さまざまな曲輪が構成されています。子供だったら堀底に降りたり登ったりで夢中で遊びそうだなぁと思いましたが、大人ですのでやめて置きます(いやその前に史跡破壊はダメ)。しかしよく見れば西側はかなり急な崖で山頂との比高差もありましたが、東側は地続きになっているのでしょうか。少なくとも西側に見られるような高低差はなさそうですね。だからこの複雑な縄張りとなっているのでしたか〜。 本丸にあがります。かなり大きな削平地ですね。一段高くなった物見櫓跡から二の丸方面を眺めた際の構図がなんとも言えません!土の城好きにはかなり脳内モルヒネが出てしまうスポットですよ。二の丸には階段もつけられていて近年散策ルートが作られたのでしょうか。ここに作らなくてもいいんじゃ・・とも思いましたが、高低差を体感するにはアリだとも思います。石段をあがりつつ時々足を止めてはキョロキョロするのが楽しいです。改めていい城ですねぇ。 そして春日丸のところに、一人黙々と整備をされている方がいらっしゃいました。いつもながらその城の素晴らしさもさることながら、それを今に伝える努力の賜物を見させていただき、ただただ感謝するばかりです。
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