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端谷城

端谷城跡


登城日:(01.08.14→08.07.20)
所在地: 神戸市西区櫨谷町寺谷
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
端谷城の本丸  当地は衣笠氏累世の居城、端谷城址であります。端谷城は、戦国時代以前における中世の山城の形態をとり、東西両面に天然の断崖、北面に人工の大堀切、さらには城域内各所に土塁、空堀、侍溜り、および侍走りを設けるなど、南側正面以外には容易に攻めがたい、まさに要害の城であります。
 衣笠氏は、三木の別所氏らとともに、播磨の名族、赤松氏の出身でありことに衣笠五郎左ェ門範弘は当時置塩の赤松氏が浦上氏のために衰えたとき、忠義を尽し、また、永正十七年(一五ニ○)、将軍足利義晴が幼少のとき、衣笠氏の館に匿われたということも記録にあります。ついで範弘の長子衣笠豊前守範景は、よく父の遺風をついで、領民を広く愛するなど、仁政を施したということであります。
 ときに天正六年(一五七八)中国征伐を意図する織田信長は、東播の雄である別所長治を三木城に攻めたが、衣笠範景は、城内の各砦を固め、自らは端谷城に立てこもったため、櫨谷の在の百姓たちは義によってともに籠城し、野口神吉志方高砂淡河の諸城とともに、別所氏幕下の有力な支城となったということであります。
 信長の武将羽柴筑前守秀吉は、侍大将織田七兵衛信澄、明石与四郎則実らをもって端谷城を攻めたて、一方難攻の城内にあっては、範景、津村市助らが勇戦したが、戦況は好転せず、結局秀吉の再度にわたる猛攻により、ついに別所氏と運命をともにし、天正八年(一五八〇)二月十五日落城したと伝えられ、以来今日に至っているのであります。
 ここに衣笠氏の遺徳を偲び、その先人の遺した貴重な遺跡文化財を長く後世に保存し、伝えなければならないと思うのであります。

 堀切
二の丸の堀切  尾根上を掘削し、遮断した堀で、本丸背後の堀切とともに城の中核部への敵の侵入を防ぐ重要な防御施設です。
 二の丸側の斜面も削り込み、さらに急峻なものにし、武器を持った敵が前進出来ないようにしています。攻める敵方は、深い堀と二の丸の斜面だけが目前にあり、二の丸で守備する城兵の数や行動が全く見えないようになっています。

 三の丸
 満福寺の境内にも、2段の曲輪(くるわ:平坦に造成した陣地)がありました。北辺には、土塁(どるい:敵の攻撃や侵入を防ぐ土盛り)が設置されています。
 南側の斜面を下ると城主の居館跡かと推測される平坦地や大手口(城の入り口)があります。これより一段さがった櫨谷川に面した平坦地には、侍屋敷や蔵などがあったと推測されます。

 二の丸
端谷城の二の丸  幅約25m、長さ約65mでこの城で最も広い曲輪(くるわ:平坦に造成した陣地)です。この曲輪からは、西南方面方向の尾根の曲輪や前面の堀を隔てて下段の曲輪へと細い道でつながっており、後詰の城兵を各所に配置することができます。また、各所の曲輪の状況が見通せる高所にあります。
 二の丸の南、西、東斜面は削り込まれ急峻な斜面となっています。西斜面には、細く小さく削り出した小さな曲輪(腰曲輪)が造られ、西南の尾根の曲輪とともに西側の谷筋をあがってくる敵を双方より攻撃できるように工夫されています。

 西南の尾根の曲輪
 本丸より西南に伸びる尾根には、2段の平坦地を造り出した曲輪が配置され、東側に面する二の丸斜面の曲輪とともに、この谷を囲むように防御しています。
 この二つの尾根に挟まれた谷は深く細いため、ここをのぼり本丸を目指す敵方は、一列になっての攻撃しかできず、左右の曲輪からの攻撃をうけることになります。

 二の丸東斜面の曲輪
 東側の斜面は、断崖絶壁で、敵が侵入するには困難な場所ですが、ここにも斜面を削り出して小さな平坦面を築造しています。
 東方の谷筋や城の背後に廻ろうとする敵の監視や、攻撃のために設置された曲輪と考えられます。

 端谷城
 端谷城が築かれた詳細な時期は不明ですが、城主の衣笠氏は鎌倉時代の中頃には櫨谷の荘園を治めていたと考えられます。室町時代には、赤松氏に属し応仁の乱(1467~77)などで活躍し、その功により衣笠の姓を得たと伝えられています。
 その後は、福中城の間嶋氏(平野町福中)などと勢力争いを続け、勢力拡大に伴い櫨谷の谷筋に池谷城福谷城城ヶ市城城ヶ谷砦など衣笠氏一族のものと考えられる城や砦を築いています。
 戦国期に入り、別所氏(三木城)が勢力をのばし、やがて東播磨の覇者となった時、端谷城もその支城の役割を果たすようになります。
 天正六年(1578)、羽柴秀吉の三木城攻めが開始され、当時の端谷城主衣笠範影は淡河城の淡河氏、福中城の間嶋氏らとともに別所方として活躍しましたが、三木城落城後の天正八年二月二十五日に落城し、廃城となりました。今日に残る遺構は、この時のものです。
 堀切によって丘陵の一部を切断するなどの大土木工事のすえ、急峻、堅固な城砦を築きあげた背景として櫨谷、東播磨全体が緊迫した状況にあったことが、残された遺構から読み取ることができます。
 櫨谷を守り続けた端谷城は落城から400年以上たちましたが、市内で最も保存状態が良好な山城です。当時の櫨谷の状況を知ることのできる貴重な遺構で、歴史遺産として後世に守り伝えていかなければなりません。

『端谷城跡案内板』より

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資料
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私見
 端谷城には何度か行きましたが、毎回少しずつ整備されて見やすくなってきたなと感じます。天正六年(1578)にはじまる織田軍による三木城攻めに対して周辺諸城と共に激しく戦った衣笠範影の端谷城。現在も当時の遺構がとてもよく残っているお城だったのですね。再訪するたびに強く感じます。
 櫨谷川が流れる奥まった寺谷集落の丘陵上に城はありました。現在満福寺が建っているところもかつての城域です。田畑となっている麓の平野部は侍屋敷、馬場などがあったとされ、かなりの規模のお城だったようですね。南端の大手側から斜面をあがっていき、お寺の東側を抜けるルートで城内を進むこととなります。丘陵は南北に延び、東西斜面は急な崖となっています。そして東側には北谷川、西側には西の谷川が流れており、非常に堅牢なお城であったことをうかがい知ることができます。また最近になってだんだんわかってきたのですが、このお城の縄張りがまた面白いですね。東側の斜面に独立して飛び出した格好で小さな郭があり、東側への睨みをきかせています。現状では微妙かもしれませんが、縄張り図で見ると「うーん、ここまでやってるのか」とビックリ。そして二の丸の南側をえぐるようにして刻まれた堀切の脇を歩かされますが、ここも面白いですねえ。でも土橋部分は後世に造られたものですので要注意(^^;。そして、城内最大の二の丸に到着です。ここは掘立柱建物があったことが分かっています。そして西側へと降りていくと西へ大きく突出した郭「西の壇」があります。ここには礎石建物があったようで、西からの敵に対しての備えがあったものと思います。現在もこんなによく分かる状態で残っているのは素晴らしいですね。神戸市の指定史跡にはなっていますが、もっと広く知られてもいい名城だと思います。
出土した押し潰された甲 出土した押し潰された甲  そしていよいよ最奥部、本丸です。ここは2005年6月26日の現地説明会で、甲(胴丸)が石敷面に付着した状態で見つかっていたのを露出展示してあり、大変感動したのを覚えています。当時の戦いの様子が蘇ったようであり、大変身近に感じました。しかし一方で、城破りの作法として甲をつぶしのではないかという見方もあるようで、秀吉から城の破却を命じられた一柳喜介に関する遺構なのかもしれないのですね。
出土した鬼瓦  さらに本丸には瓦状の焼き物を建物の外壁に添うように埋められた塼列建物が見つかっています。入念に雨水やネズミ被害の対策が取られたこの建物は、土蔵として使われいたんだと考えられいます。こういった塼列建物は、近隣では枝吉城御着城置塩城感状山城伊丹城などがありますが、実際に目にできたのは初めてでしたので貴重な経験となりました。また、多くの瓦も出土しており、この端谷城は、往時の様子を考察するための重要な示唆を与えてくれているのですね。
 また、端谷城周辺には、多くの支城がつくられています。城ヶ谷砦池谷砦福谷砦城ヶ市砦など・・。すべてを見て回るとなるとかなりの時間が必要ですが、それだけ充実した城攻めができる一帯であることは間違いないです。ぜひ一度訪問してみてください。
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